暮らしに役立つ 医療のおはなし 37
on your mark 機能性胃腸症の話 わたひき消化器内科クリニック 副院長 斉藤 雅之

図. 機能性ディスペプシアの診断基準
Medical Tribune紙 2006.12/21号より
■機能性胃腸症とは
 安倍元首相が突然退任して、『機能性胃腸症』というあまり聞きなれない病気で緊急入院しました。この病気(病態)は、簡単にいえば、『血液検査や内視鏡、レントゲン検査などを行っても、症状に見合うような原因となる所見が得られないけれど、ちゃんとそれなりの症状を呈する病態群』と考えればいいと思います。胃では機能性ディスペプシアと表現され、食後の膨満感や早期飽満感、心窩部痛などの症状(図)が、腸においてはよく知られた下痢や便秘を繰り返す『過敏性腸症候群』があります。

■機能性胃腸症の原因と治療
 機能性ディスペプシアの生理的機序の一つに、酸を伴った食物が十二指腸に速く送られてしまい、胃底部(胃の上の部分)の適応性弛緩障害をきたし、早期飽満感や膨満感を生じる(要するに胃が十分拡がらないためにすぐおなかがポンポンになる)との考えがあります。この場合には、酸分泌抑制剤(H2ブロッカー)や消化管運動機能改善剤が有効なケースもあります。
 しかし、多くの患者さんでは、不安や怒り、葛藤といった様々なストレスにより胃に痛みを感じたり、気持ち悪さ、おおぼったさなどの症状が現れます。これらを『脳腸相関』『器官言語』といいます。そのため、根本的には、患者さんが抱え込んでいる心配事や苦悩を明らかにし、解決の糸口を探っていかなければ症状の改善は望めません。

■安倍元首相の場合は…
 機能性胃腸症のために緊急で入院治療が必要になることは、他の炎症性腸疾患などの合併がない限り「!?」です。安倍元首相は、多くの困難な問題を抱え、精神的にポキリと折れて、無力感・焦燥感・絶望感に至り、身体が憔悴していったのではないでしょうか。このことは、彼の生真面目さを示すものでもあります。
 当然、彼にも精神科的サポート・治療が必要です。まずは一人の生身の人間としてゆっくりと休養することが大切です。今後彼が立ち直っていく姿は、国民に対してお詫びと同時に「どんな状況におかれても人は時間とともに絶望の闇から抜け出して再出発のラインに立てるんだ」という誠実なメッセージになるはずです。

■いつでもon your mark
 今年8月に開催された大阪国際陸上で、選手がスタートラインにつく時の合図が『on your mark』でした。残念ながら日本選手の成績は、土佐礼子選手以外は期待されたほどにはふるいませんでした。しかし、陸上をメインスポーツにしようと頑張ってきた為末選手や末続選手、鈴木選手、室伏選手らのそれまでの汗と涙は想像を超えるものであったことでしょう。そして、競技場に立つことができなかった他の多くの選手達の汗と涙もまた。結果ではなく、それまでに至る過程・プロセスが最も意味あることだと思います。彼らはまた再挑戦し続けるでしょう。
 人は「気付き」によっていつでも、いくつになっても、何度でも再スタートラインに立つことができます。困難な状況は変わらなくても、その状況の捉え方を変えることによって道は開かれます(認知行動療法)。精神科医丸田俊彦氏は頑固な疼痛に対する治療スタンスとしてA
patient with chronic pain(慢性疼痛を有する患者)からA person with chronic pain(慢性疼痛を有する人)へ、すなわち痛みを持ちながらも行動する、働く人間へと変容していくことの重要性を述べています。変容の過程で患者さんも家族もメディカルスタッフも成長していきます。変容の過程で併存する鬱は改善・消失します。
 これは、高血圧、糖尿病、喫煙、肥満、鬱、リストラ、なんについても言えることだと私は思います。気の遠くなるような長い時間、祖先の血を受け継いで今日あるかけがえのない『わたし』なのですから、世間体という得体の知れないしがらみを打ち破って、もう一度、いや何度でもそれぞれのスタートラインにつきましょう。
 さあ『on your mark』。



発行/萩野原メディカル・コミュニティ